WBC ワールド・ベースボール・クラシックに出場する信州人選手がいた?! ブラジル代表・曲尾マイケ選手のルーツについて。

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いよいよ明日からWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)が始まる。

侍ジャパン、第1ラウンドの日程は下記のとおりだ。


3月2日(土) vsブラジル (19:00~ 福岡ヤフオクドーム)
3月3日(日) vs中国 (19:00~ 福岡ヤフオクドーム)
3月6日(水) vsキューバ (19:00~ 福岡ヤフオクドーム)


初戦はブラジル代表と対戦。ブラジルは予選でパナマを破って本戦に駒を進めてきた決して侮れない相手だ。

Twitterで散々ツイートしていたので、御存じの方もいらっしゃるかもしれないのだが、実は2月中旬以降、1人のブラジル代表選手のルーツがどうにも気になって調べている。

その選手とは、曲尾マイケ外野手(21歳)である。

1991年11月16日ブラジル・サンパウロ生まれの日系ブラジル人。両親の仕事の都合で5歳のときに来日した。以来、日本で成長し、日本で野球を覚え、高校は青森山田へ。2008年、2009年甲子園出場を果たしている。

2009年のドラフト育成1位で東京ヤクルトスワローズに入団。しかし3シーズン1度も1軍に呼ばれることなく、昨年秋戦力外通告を受けている。2軍(イースタン)での通算成績は162試合出場、200打数45打数22安打、65三振、11四球、3本塁打、打率.225だった。


■曲尾マイケ 2軍成績



戦力外となった曲尾マイケ選手だが、WBCブラジル代表に呼ばれ予選を戦ってきた。そして本戦の最終メンバーにも選ばれている。

私はもちろん楽天ファンで、その昔は巨人ファンだった。そのためヤクルトに特別な思い入れはない。そんな他球団の1度も1軍に呼ばれずに戦力外になった選手について、今まで全く気になることはなかった。ただ、ヤクルトには日系ブラジル人選手が増えてきたなーという感想を除いては。

その認識が変わったのは、2/10(日)にNHK BS1で放送されていた「スポーツドキュメンタリー WBC日系人たちの挑戦~初出場 ブラジルチーム」を観てからになる。サッカー大国のブラジルでの野球の歴史は、日本から移民した日系人コミュニティの中で、厳しい開拓生活を潤す余暇として楽しまれてきたのだという。どうりでブラジル代表には日系人選手が多いわけだ。

この番組中、曲尾選手の曲尾一家が元々は長野県出身だということが、マイケ選手のおじさんの口から語られていた。番組では長野県とだけ紹介があって、長野県のどこそこの言及はなかった。

しかし、「曲尾」「長野県」というキーワードから、私は長野県上田市に「曲尾」の地名があったことを思い出した。

ひょっとすると、曲尾マイケ選手のルーツは信州上田にあるのではないか?!

・・・という予想を立てた私は2月中旬からマイケ選手のルーツについて独自調査を進めてきた。

あらかじめ断っておくが、曲尾家と私は全くの他人だ。ただ、同じ信州上田地域に住んでいるということだけなのだ。だが、気になって仕方がない。それは自分がそういう年齢になりつつあるのか?それともNHKの「ファミリーヒストリー」に毎回感動させられているのか?自分でも良く分からないが、とにかくおせっかいだと言われようがなにしようが、調べてみたくなったのだ。


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曲尾という地名は上田市真田地区傍陽に残っている。私が生まれる前、昔は上田交通真田傍陽線に曲尾駅という駅名にもなっていたほどだ。真田幸村などの歴史好きなら、真田氏が歴史文書に初めて出てきた「大塔物語」で曲尾姓が出てくることを御存じの方もいるだろう。当初、真田地区に今なお曲尾さんが住んでいるのかもしれないと見当をつけた私だったが、調べていくうちに、少々事情が異なってくる。

戦国時代、曲尾氏は隣の真田氏の攻撃に遭い、上田市の南方、塩田平の手塚や下之郷に逃げ落ちていったのだという。この2地区には現在も曲尾さんが複数住んでいるという情報を入手した私は、さらに調査を進めた。

この時点で、私は地元・信濃毎日新聞に情報提供をおこなっている。2月18日のことだ。WBC開幕までに時間がなくなってきた。自分の力では限界を感じたこともあって、地元紙にダメ元でこういうネタがありますよとお知らせした。

翌19日、信濃毎日新聞の記者氏から電話がかかってきた。かくかくしかじかとこちら説明した後、記者氏はヤクルトスワローズ経由で曲尾マイケ選手に直接取材をとってみる旨を伝えてきた。

ならば、こちらは上田市の曲尾さんから攻めてみようと思い、さらに調査を進めた。その結果、上田市下之郷で戦後直後ブラジル移民した曲尾さんがいたことを突き止めたのだ。

先日、上田市下之郷へ実際に足を運び、方々で訊ねたすえ、曲尾さんから直接お話をする機会に恵まれたのである。

下之郷の曲尾総本家が戦後直後ブラジルはサンパウロに移民したという。私がお話しした曲尾さんは、どうやら総本家の弟(上田にとどまった)のお子さんらしい(といっても60代だと思う)。そういえば、マイケ選手もサンパウロ生まれなのだ。話を訊いていくうちに、どうやら私が話をした曲尾さんのおじさんの孫、従兄弟の子どもがマイケ選手になるらしい。

らしい・・・というのは、曲尾さん自身でも絶対的な確証が取れているわけではないということだった。マイケ選手が甲子園に出場した際、下之郷の曲尾一族の間で、総本家の子孫なのでは?と話題になったことがあったという。しかし、その後ヤクルトに入団し、昨年戦力外になり、WBCブラジル代表に選ばれ、先日NHK BS1で紹介されていたことは御存じなかった。

NHK BS1で曲尾家は長野県出身だと紹介されていましたよと伝えると、それじゃあ間違いないと思います、とのこと。

しかし、絶対的な裏が取れたわけではない。ただ、私の中ではマイケ選手のルーツは十中八九、信州上田下之郷にあることがつかめた。

本日、信濃毎日新聞の記者氏から2度目の連絡があった。

記者氏の話によれば、その後マイケ選手に直接取材を試みたところ、マイケ選手も曲尾家は長野県出身だとおじさんから聞いたことはあるものの、長野県の上田市かどうかはわからないと答えたという。

そこで、マイケ選手経由でおじさんに上田出身なのか?またはマイケ選手のおじいさんの名前は何だったのか?を訊いてもらうよう依頼したという。

しかし、ブラジル代表も練習等でそれどころではなく、オリックスやソフトバンクとの練習試合もあったりと、マイケ選手に再度コンタクトをとろうと何度も連絡したものの、ようやくつながったのが昨日今日のことだったという。

時事を伝えていくという新聞の性質上、ブラジルが福岡で戦っているWBC第1ラウンド?の間に、上田なのか?マイケ選手のおじいさんの名前は何というのか?が判らなければ、記事化できないという話だった。もし判ってもWBCが終わった後なら、ニュースとしての価値は下がってしまう。そのため、この場合もお蔵入りになる見通しということだった。

もしマイケ選手のおじいさんの名前と、私が話をした下之郷曲尾さんのブラジルへ渡ったおじさんの名前が一致すれば、ビンゴ!ということになる。「曲尾という非常に珍しい姓」かつ「長野出身」さらに「下の名前も同じ」ということになれば、裏が取れたと言うことができるからだ。

まだどうなるか?はわからないが、それでも、私はマイケ選手の出自が上田市の下之郷にあったと信じている。

ガーッと書きなぐったので乱筆乱文だが、このことを備忘録として記しておきたい。記事化された時には、加筆修正して、お知らせしたい。



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【雑感】 “特攻”で洋上に消えた信州人プロ野球選手 渡辺静(2011.2.13)

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【雑感】 “特攻”で洋上に消えた信州人プロ野球選手 渡辺静

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年明けに読んだ1冊の本について、そこで紹介されている1人のプロ野球選手について、
自分自身の備忘録のため綴ってみたい。

20110213DATA1.jpg

現在NPBで活躍する信州人プロ野球選手は僅か数人である。
昨年最多勝に輝いたオリックスの金子千尋投手(長野市。長野商)
星野楽天の下、盗塁王を狙う聖澤諒選手(千曲市。松代高─国学院大)
中日で今季再起を図る川井雄太投手(佐久市。上田西─大東文化大─日本通運)
オリックスの2軍には甲斐拓哉投手がいる(松本市。東海大第三高)
(あともう1,2名いたかもしれない(^_^;)

嗚呼、信州はプロ野球選手不毛の地なのだ...

今でこそ前述の選手の好活躍があるが、
つい最近までは松商から日本ハム~中日と渡り歩いた上田佳範選手が
信州人プロ野球選手の成功例だった
(甲子園でイチローを討ち取って勝利を掴んだ映像がYOUTUBEにある)

そんな感じで長い間嘆いていた僕であるが、日本プロ野球草創期に活躍していた信州人プロ野球選手の存在を、
つい最近まで恥ずかしながら知らなかった。しかも灯台下暮らしで隣の市、佐久市出身だという。

渡辺静(1923生─1945没)。
現在の小諸商業高校で活躍し、その後、現在の横浜ベイスターズに連なる朝日軍に入団したという。
入団初年の公式戦出場は僅か2打席(三振と三ゴロ)。
その年の秋、学徒出陣。終戦を迎える2ヶ月前、特攻隊員として僅か22歳の命を散らした。

東京ドームに「鎮魂の碑」がある。先の大戦で命を亡くした69名のプロ野球選手を慰霊した石碑だ。
そこに渡辺静の名前も刻まれている。
そして、この69名中、特攻で戦死したのは渡辺静含めて僅か2名だという。

▼鎮魂の碑


そこで調べてみたら、地元の出版社から1冊の本が出ていた。
渡辺静の甥の中島正直さん(当時読売新聞記者)が書いた
『白球にかけた青春──陸軍特攻隊員 渡辺静香』(櫟 1986年)がそれだ(上記写真)

涙無くしては読めなかったこの本を、読んで、自分のためにまとめてみた内容が下記である。

戦争のこと、特攻のこと、いろいろ考えさせられることが多かった。そして、自分の知識不足に愕然とした。
当時必死で職業野球の灯を守ろうとした先人の思いも知ることができた。

毎年8月15日は必ずやってくる。8月15日ぐらい在りし日を偲んでも良いのではないだろうか?
8月15日の公式戦、黙祷は行われていただろうか? ちょっと僕の記憶には...ない。

そして、渡辺静と同郷になる中日ドラゴンズ、川井雄太投手は、
故郷にそのような先人がいたことを果たして知っているだろうか?

渡辺静はプロ野球選手としてみれば大した成績も残せなかった。
そういう意味では別に劇的なドラマがあるわけではない。
しかし、劇的ではないからこそ、僕の胸を打ったのかもしれない。

(出撃を前にして揺れ動く心情が綴られた日誌と、
戦後、遺族が「学鷲の記録──積乱雲」に寄稿した各種文章を読んで、
思わず胸が熱くなりました)

なお、本書は絶版。Amazonでは高値がついています。
興味がある方は、佐久市立図書館に蔵書が複数冊あります。
市外でも貸出してくれると思います。

20110213DATA2.jpg

渡辺静

◎生い立ち
1923(大正12)年4月15日誕生。長野県佐久市望月地区(当時は北佐久郡協和村土林)で、
父・渡辺鹿之助、母・ちやうの四男として、五男五女の9番目として生を受ける。
渡辺家は江戸時代の元禄年間から続く旧家で、
父・鹿之助は教師~産業組合役員~村会議員等を歴任する地元の名士だった。

◎性格
いわゆる一昔前の信州人らしい朴訥とした性格だったようだ。
「静ながら、実は肝っ玉が座っていました」(丸茂秀雄 小諸商業野球部球友)
「地味で控え目、そして忍耐強い性格」(本文より)
「口数は少ないが、時々、冗談を飛ばして、仲間を笑わせていた」(本文より)
「まじめでおとなしく、練習熱心・・・」(坪内道則 朝日軍)
「特に静君のあの、どっしりして、泰然とした姿勢を見て、私は哲学でも専攻したのかと思いました」(田尻宗也 特操同期)

◎幼少~小学校時代
幼少、小学生の静はクラスでも1,2を争う体格の持ち主で群を抜くスポーツ万能少年だった。
野球、ドッチボール等に夢中になり、バスケットボール大会や陸上競技大会にも選手として参加、
良い成績を収めたという。当時、静が通っていた小学校には、小諸商業出身で野球に熱心だった先生がいて、
静もその先生の下、野球に励み、導かれるようにして進路を小諸商業に決めたらしい。

◎1937(昭和12)年、14歳
7月7日に盧溝橋事件発生。これを契機に日本は中国と泥沼の長期戦争に突入していく。

◎1938(昭和13)年、15歳
小諸商業学校(現・小諸商業高校)に入学。野球部入部。
入学当時は身長165.8cm、体重65kg、胸囲80cm。恵まれた体躯だった。
当時の部員数は30名前後だった模様。

◎1939(昭和14)年、16歳
国民徴用令の制定。戦争遂行上必要な労働力不足を補完するため国民を強制的に軍需工場などで
働かせることにした勅令。
2年生になったこのシーズンから対外試合に出場するようになっていく。
初出場は上田中学(現・上田高)との一戦。6番センター、四球、右中間二塁打、四球という立派な成績でデビュー。

◎1940(昭和15)年、17歳
この頃から小諸商野球部はめきめきと力をつけて注目チームの仲間入りに。
春には39年甲子園準決勝まで駒を進めた長野商と対戦、4-3で勝利している。
長野商はこの年も甲子園で準決勝進出する強豪だった。
秋には群馬の桐生と練習試合、この試合で初めて4番に座る(レフト)。
小諸商が初めて甲子園を“意識”したシーズンになった。

◎1941(昭和16)年、18歳
この年の12月8日に日本は米海軍太平洋艦隊の本拠地だった真珠湾を奇襲攻撃、太平洋戦争が勃発する。

4月27日に長野商と試合、4-0で勝利。5月18日に松本商(現・松本深志)に5-0で快勝(静は4打点の活躍)。
そして、小諸商の名を一躍全国に轟かせた運命の1戦が6月6日に小諸商グラウンドで観衆1万人を集めて行われた。
相手はこの春の選抜大会の優勝チームで全国屈指の強豪(ベスト4が四回、優勝が三回)だった東邦商。
小諸商躍進の報を聞きはるばる愛知から遠征しにやってきた。結果は延長12回の熱戦の末、3-3の引き分け。
周囲の予想を覆す小諸商の大大健闘、この1戦を機に、全国レベルでもその名が知れ渡るように。
さらに夏の甲子園初出場へ向けて、小諸商ナインの胸も高まる絶頂期だったに違いない。
(この後の練習試合では投手としてマウンドにも上がっている)

ところが、そんな球児達の夢は無残にも打ち砕かれた。
7月12日、文部省から出された全国的運動競技大会の中止命令により、
夏の甲子園大会は45年まで中止となってしまう。
甲子園予選大会に向けて気合い充実の猛練習を続けていた小諸商ナインの無念は、いかばかりだったろうか。

「甲子園へ行ける力は十分あった。合宿では、みんな張り切っていた。
大会中止の知らせに返す言葉もなく、みんな泣いた。今までの努力は何だったのだろうと報われぬ猛練習に、
いらだちを覚え地面にグラブをたたきつけた仲間もいた。あんなみじめな思いはなかった」
(丸茂秀雄 小諸商野球部球友)


捨てる神あれば拾う神あり。東邦商と互角に演じた熱戦で小諸商業の名は全国に知れ渡った。
その強打の中心選手だった静の名も同様だ。秋にはその噂を聞きつけて職業野球の朝日軍を率いていた
竹内愛一監督が初めて静に接触した。「職業野球団に入らないか─」と。

降って涌いたかのような突然の勧誘をその場では断った模様。
理由としては小諸商の学生として在学期間がまだ1年残っていること(5年制だった)、
そして、職業野球における社会的地位が認知されていなかった点が大きいと本書では述べている。

現在の日本野球機構(NPB)に連なる日本職業野球連盟が結成されたのが1936(昭和11)年、
ベーブ・ルースらメジャーリーグの選抜チームとの対戦を機に大日本東京野球倶楽部(現在の巨人)が
創設されたのが1935(昭和10)年だった。誕生したばかりの新組織だった。

現在の感覚で言えば僕らがイメージする独立リーグ(BCリーグ、四国アイランドリーグ)のような捉え方
だったかもしれない。渡辺家が旧家である点も大きく影響しているに違いない。
そして、何と言っても一番大きかったのは、敵国のスポーツである。

「戦争とともに、人気スポーツは剣道や柔道、相撲などがクローズアップされ、
子供の世界からも野球はすでに“日陰者”になっていた」(本書より)


◎1942(昭和17)年、19歳
緒戦連戦連勝、破竹の勢いも、太平洋戦争のターニングポイントとされるミッドウェー海戦が
6月5~7日に行われている。

静は19歳、小諸商の最上級生。この間も朝日軍の竹内からの繰り返しの勧誘が続いていた。
当時20歳になると男子は徴兵検査を受けなければならなかった。
当時それが免除されるのが高等教育への進学だった。
当時の職業野球団はどこも専門学校入学の条件を最大の説得材料にして全国の有望選手を勧誘していたらしい。
昼は野球、夜は専門学校、卒業するまでは兵役免除される、こういう訳だった。
9月には竹内と父・鹿之助と3人で小諸で面談、その後も卒業が迫る中、
家族会議で何度も話し合いが行われたそうで、この年の暮れに遂に入団を決意した。
(当時は卒業が繰り上げられ、12月に行われていた)

◎1943(昭和18)年、20歳
1月30日朝日軍(後の松竹ロビンス~大洋ホエールズ~現・横浜ベイスターズ)に入団。
球団事務所は兵庫県西宮にあったという(本拠地は東京江東区新砂の須崎球場?)。
当時の朝日軍は、投手5人、捕手2人、内野手10人、外野手4人。静の背番号は20、
高校では内外野を守り、捕手も投手もこなしたが、朝日軍では投手登録されている。

野球用語が日本語に改められたのもこの年である。
ストライク1が「よし1本」、ボール1が「一つ」、三振が「それまで」、セーフが「よし」、
アウトが「ひけ」、ボークが「反則」等。なお、お上から強制的に変えさせられたという印象が強いが、
日本職業野球連盟が自主的に変更したというのが実際。この年は東京六大学野球が解散を命じられ、
いよいよ野球は肩身の狭い立場に追い込まれ、そんな状況下でも何とか生き残るために、
野球用語を日本語にしてみたり、戦費調達の債券を球場で販売したり、公式戦とは別に呉の海軍工廠を
始めとする各地で慰問野球を開催したり、あの手この手で職業野球が生き延びることに苦慮していたのだ。
そんな状況下でも、学生身分ではない職業野球選手には続々と赤紙が舞い込んでいた。

この年の優勝は巨人(54勝27敗)、2位は名古屋(48勝29敗)、3位は阪神と朝日(41勝36敗)と健闘。
朝日軍は77試合の公式戦を各地で闘ってきたが、静の出場は僅か2試合、いずれも代打での2打席のみに止まった。

5月23日、6-7で敗れた大和戦(甲子園)。9回表に代打出場、三振に倒れる。
7月6日、4-1で勝利した南海戦(後楽園球場)。終盤に代打で出場、結果は6-4-3の併殺となるサードゴロだった。


公式戦は僅か2試合の出場だったが、前述した慰問野球にはよく出場したという。
秋には練習試合?オープン戦?で上田市営球場で朝日軍が試合を行っている。
家族も駆けつけ、応援に声をからした。

太平洋戦争の戦況は米軍の本格的な反転攻勢が始まり、日本は窮地に立たされていく。
2月にはガタルカナル島から“転進”、4月に山本五十六連合艦隊司令長官が戦死、
5月にはアッツ島守備隊の玉砕、9月には同盟国のイタリアが無条件降伏。

このような逼迫した戦況悪化を受けて、
9月22日、遂に政府は法文系学生の徴兵猶予停止を発表、学徒出陣である。

10月28,29日、上田市公会堂で徴兵検査。甲種合格。
11月19日朝日軍を退団。
11月29日、渡辺家宅で壮行会。日の丸旗1本だけだった...
11月30日、郷里を後に金沢へ。
12月1日、金沢の東部第49部隊に入隊(余談だが私の祖父も金沢で入隊したと聞いた記憶がある)
12月7日、父・鹿之助宛に手紙「私も此れからは一意専心軍務に精励致し、立派な帝国軍人になる覚悟であります」

◎1944(昭和19年)、21歳
この間、幹部候補生試験に合格、一等兵に。前後して特別操縦見習士官(陸軍)の二期生試験にも合格。

この特別操縦見習士官は、ミッドウェー海戦以降の相次ぐ連敗で多くのベテランパイロットを失い、
制空権も失っていったことから、パイロットの大量育成を掲げて、陸軍が前年6月に設けた制度。
採用と同時に曹長に任命され、1年余の短期間で一気に少尉に昇進。
通常ではありえないスピード出世(六階級特進)が、多くの若者の心を惹きつけたという。
採用予定者の6倍もの応募があったと本書は伝えている。

2月8日、熊谷飛行学校相模教育隊に入隊。
2月13日、入校式。「本日ハ入校式ヲ行ヒ校長閣下ヨリ特別操縦見習士官入校
ニ際シアリガタキ訓示ヲ賜リ非常ニ感激シタ。立派ナ帝国軍人トナリ、米英撃滅ノ為邁進シ、
君恩ニ報ヒ国家ニ捧グル覚悟」。
静は「修養録」と題された日誌を以後毎日綴ることになる。
もちろん検閲がある。しかし、この決意は正直な気持ちに違いないと本書。

グライダーでの訓練。

3月24日、群馬の館林飛行教育隊に転属。

教師役を務める兵士は叩き上げの伍長や軍曹。教えを請う特別操縦見習士官より階級が下だった。
このことが溝となって、理不尽な暴力が日常茶飯事だったそうだ。

本書いわく「しかも、その軍隊は、彼らの想像を絶する社会だった。
理性は抹殺され、歴戦のプロからは、常に“青白いインテリ”として白眼で見られる。
この青白いインテリに対する職業軍人の反感はその胸のうちにとどまらず、常に理不尽で、
とても人間業とは思えない私的制裁に増幅されていた」


8月1日、戦闘機要員として鹿児島県知覧基地に配属。西部第123部隊所属。

ここでも理解しがたい虐待に遭う。
仲間だった飯田幸八郎いわく「全く要領の悪い、ドジな男で、自分は失敗しないのに、損ばかりしていた。
殴られる時、ひょっと横を見ると必ずナベが立っていましたよ」


10月23~25日、レイテ沖海戦。
この時、大西瀧治郎海軍中将が零戦に250キロ爆弾を積んで特攻させる神風特攻隊の編成を命じた。

12月1日、佐賀県神崎郡三田川村の西部第110部隊に配属。

三式戦闘機(飛燕)を使用した飛行練習が続く。
まともに整備された戦闘機は当然前線に配備されている。
練習機はメンテナンスもそこそこで4,5機だったらしい。1人当たりの1日飛行時間は約5分だとか。
こんな劣悪な状況で訓練に励んでいた。
ある日着陸時に失敗し飛行機を中破させてしまったエピソードが日誌に綴られている。

「一億ノ血ヲ流シテ造ッタ飛行機ヲ毀シ、大切ナ兵器ヲコハシ、
ナント言ッテオハビシテヨイヤラワカラナイ、実ニ穴ニ入リタイ様ナ気ガスルナリ」


◎1945(昭和20年)、22歳
3月21日、硫黄島玉砕。4月1日、米軍沖縄上陸。4月7日、戦艦大和沖縄特攻で撃沈。
8月6日、広島へ原爆、8月9日、長崎に原爆、8月15日、ポツダム宣言受諾。終戦。

2月10日、少尉に任官。

3月上旬、部隊内で対抗の野球試合が開催。静は一躍注目の人に。
そしてこれが最後の野球となってしまった。
途中からマウンドに上がり、快刀乱麻の好投を披露。
同期の田尻宗也(鳥取中の名捕手)いわく「モーションは小さいが、
コントロールが良かったのを覚えています。静君のあの性格から、闘志を胸に秘め、
じっとベンチで試合の成り行きを見守る監督の器だと思います。これは決してお世辞ではなく、
いま、この世に在ったら、変ったタイプの監督として、プロ野球指導者の長老組の一人になっていたと思います」


3月6日、上官から特別攻撃の重要性の訓話を受けて志願を促される。
ここで重要なのは特攻は志願制度だった点だ。
しかし、次に掲げる同期の証言が見事に正鵠を射ていると思われるので引用する。

「今から考えると、それは一種の集団心理であったかも知れない。
しかし当時はそんなことは夢にも思わなかった。私達の身はどうなってもよい、
敵に負けてたまるか、我々がやらなければ日本が滅びるのだ、
誰が家を国土を護るのだという気持がひとつの信念として心のなかに刻みこまれていた。
それとともに同期の友に出遅れてたまるかという競争心と、
志願しないのは同期として恥であるという気持が心の底にあった。
このようにして全員が特攻隊員を志願したのだった。しかし私達は覚悟をきめて志願したとはいえ、
表面は平静を装っていたものの、心中は決して穏やかではなかった。いつ発令があるのか、
志願した以上命令は必ず来るはずである。いつ来るのは、明日か、明後日か。
命令を受けたとき俺は平静でおれるだろうか、心の中は不安と克己との闘いであった」


5月5日、三重県宇治山田市(現・伊勢市)近辺の陸軍明野飛行場で特攻隊の編成。
静は第165振武隊(6人。隊長除く5人が特操二期の同期の桜)割り振られた。


運命の日となる6月6日まで各地の飛行場を転々としながら出撃命令を待っていた。
その間を縫った5月16日、出撃用の戦闘機をとりに茨城の飛行場へ行った帰途、
僅か数時間だけ故郷の協和村に最後の帰省を果たす。送別会、涙の別れ。

6月に入ってからは1日1日の命であった。天候不順で出撃が延期になっていく。
日誌には「いざ征かん 雨も風をも 乗越えて 吾れ沖縄の球と砕けん」。これが辞世の句に。
次のページには「野球生活八年間 わが心 鍛へくれにし 野球かな 日本野球団朝日軍 渡辺静」。
こちらが絶筆と伝えられている。
その間に家族へ当てた最後の文章、家族の名前を書き連ねたページなどがあり、
悪天候のため出撃を伸ばされている状況下での、揺れる思いがみてとれる。

6月6日、鹿児島県知覧基地を13時31分に出撃、数時間後、沖縄洋上で戦死。

「首尾よく沖縄へ向かい、敵観船群を補足できた時、何と叫んだだろうか。
「天皇陛下、万歳」か、それとも「お父さーん!!」──か。いや、違う。それは言葉にならない
絶叫だったであろう。苦悩と恐怖と孤独からやっとのことで逃れ、解放された叫びでもあった。
五人の若き肉体と魂は、一瞬にして微塵に砕かれ、硝煙と砲声に覆われた南海の藻屑と化した。
その海はどこまでも碧く澄んで、七色に光り、輝いていた」(本書より)

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真田幸村の赤備えがクリムゾンレッドにみえるそんな信州人による、東北楽天ゴールデンイーグルス応援ブログ。

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